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「主は心を見る」
彼の容貌や、背の高さを見てはならない。
・・・人はうわべを見るが、主は心を見る。

(汽汽爛┘襭隠供Γ掘

 きょうのみことばは、イスラエルの王を選ぶ基準として、主が預言者サムエルに示されたものです。それに従って最後に選ばれた少年ダビデについて、わざわざ「その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった」(同12節)と書かれているのを読むと、「ちょっと約束と違うのではありませんか」と皮肉を言いたくなりますが、まあそれはそれとして、主が王とする者の第一条件は、どこまでもその心にあったのです。
 神が人の心を見る方であるということは、私たちにとって、二つのことを意味します。一つは、神を恐れなければならないということです。人はうわべでごまかせますが、神はそうではないからです。もう一つは、安心できるということです。人には誤解されたりしますが、神だけは、私たちのすべてを最もよく知っておられるからです。


野田秀著『仰ぎ見る日々』より


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「現代のヨブは?」
あなたは地の広さを見きわめたことがあるか。
そのすべてを知っているなら、告げてみよ。

(ヨブ38・18)

 現代人に神がこう問われたならば、「はい、できます」と答えることができるでしょう。宇宙飛行士が地球の外から地の広さを見、私たちも写真でそれを見ることができるからです。しかし、それができたからといって、人間は肩をそびやかすことができるのでしょうか。
 ある宇宙飛行士が、「宇宙を飛んで神に会えるかと思ったが、やっぱり神はいなかった」と言ったとき、別の飛行士は、「神を見ることはできなかったけれど、神が造られたものを見ることができた」と述べたという話があります。
 宇宙の広大さに比べたら、この地球も、またそこに住む私たちも、何と小さな存在でしょうか。その小ささをわきまえ、同時にその小さな私たちを顧みてくださる神の存在を認めることが、本当の意味で初めの問いに答えたと言えるのです。現代のヨブたちは、いかに答えるのでしょうか。

野田秀著『仰ぎ見る日々』より






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「十字架」
主のみこころは彼によって成し遂げられる。
彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。

(イザヤ53・10、11)

 受難週に必ず開いてみる本に、J・ストーカーの『キリストの最期』(いのちのことば社)があります。イエス・キリストが十字架につけられる過程を、深い洞察のうちに描いている著者は、その中に「われわれの主の生涯の最後の段階のところを読む者は、恐怖に心を奪われる」と述べています。
 人間が考えた死刑の方法の中で、できるだけ長い時間をかけ、心身ともに苦しめながら殺すためにはこれ以上のものはないと言われるのが、十字架です。事もあろうに、イエスはそれを経験されたのです。そればかりか、罪のない方が、すべての人の罪を負うという霊的な苦しみがありました。それは誰も経験したことのないものです。イザヤは、それらを「激しい苦しみ」と言ったのでしょう。
 イエスは、それを神のみこころとして受けとめ、そこに私たちの救いを完成してくださいました。

野田秀著『仰ぎ見る日々』より


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「誕生・死・復活」
私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、
死者の中からよみがえったイエス・キリストを、
いつも思っていなさい。

(競謄皀藤院Γ検

 このみことばには、イエス・キリストが通過された、誕生と死と復活という3つの大切なステップが明らかにされています。
 キャンプなどに行くと、オリエンテーションというのがあります。あらかじめ設けられたいくつかのポイントを、指示に従ってたどりながらゴールを目指すものです。そこではすべてのポイントを順番に通過しなければ、どんなに早くゴールインしても失格になります。
 キリストが通過された3つのポイントは、そのまま私たちもたどるコースなのです。しかし誕生と死まではだれもが認めるポイントですが、ある人は第三のそれを認めません。そんなポイントはあるはずがないと言うのです。はたしてそうでしょうか。人は皆よみがえり、神の前に立たなければならないのです。そのときのためにこそ、キリストによる救いが必要なのです。

野田秀著『仰ぎ見る日々』より

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「神は真実である」
彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。

(へブル11・11)

 神のご性質の中で大切な一つは、真実であられるということです。真実であるとはどういうことかというと、約束したことを自分に対して守ることなのです。その根拠は「私たちは真実でなくても、彼にはご自身を否むことができないからである」(競謄皀藤押Γ隠魁砲箸いΔ澆海箸个砲△蠅泙后
 約束するということは、人に対してするのですが、それは同時に自分自身に対してもすることです。ですから約束を守らないことは、自分を否むことなのです。しかし、神は決してご自身を否むことのない方です。そこに神の真実があります。
 ここで使われている「真実」ということばと、「信仰」ということばが、ギリシヤ語ではピスティスという同じことばであることが、信仰とは、神の真実に対する信頼なのだということをよく表しています。

野田秀著『仰ぎ見る日々』より



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「私を喜びとされる主」
主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、
その愛によって安らぎを与える。
主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。

(ゼパニヤ3・17)

 いつかある人が、「ゼパニア書などというところに、こんなすばらしいことばがあるとは知りませんでした」と言っていましたが、同感の方がおられるのではないでしょうか。それはともかく、主がこんな私をも喜びとしてくださるとは大きな驚きです。
 不十分かもしれませんが、このみことばに見る神の愛は、やはりわが子に対する親の愛が、それを最もよく表していると言えるでしょう。
  黒髪の吾子生れ目より涙落つ 白泉
  入学の吾子人前に押出だす  桂郎
 手もとにこんな俳句がありますが、親というものの思いがよく伝わってきます。私も子どもが少しおそく与えられたので、わが子が生まれたと知ったときには、知らない人にまでふれ回りたいような思いを持ったものでした。
 私たちをいつくしみ、喜びとしてくださる神がおられるのです。それにふさわしくありたいものです。

野田秀著『仰ぎ見る日々』より

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「人間の恐ろしさ」
からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。

(マタイ10・28)

 何年も前のことですが、有名な地震学者が東京を離れて地方に移りました。大地震に備えてのことですが、地震がこわいからではなく、パニックになったときの人間がこわいからというのが理由でした。そういう特殊な状況ならともかく、これが人間のすることかと思われるようなことが、日常的に起こる最近の傾向は、かえって不気味な恐ろしさを感じさせます。
 もっとも人間のそうした恐ろしさについては、聖書も十分に述べているところであって、きょうのみことばの少し前にも「兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます」(同21節)と書いてあります。そうした恐ろしさが、人間にはあるのです。
 けれどもイエスは、どんな人も他人のたましいまで損なうことはできないのだから、いたずらに恐れず、いっさいの権威を持っておられる神をこそ、恐れるべきだと教えてくださったのです。
野田秀著『仰ぎ見る日々』より

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「シナイ山の星座」
あなたが鷲のように高く上っても、星の間に巣を作っても、わたしはそこから引き降ろす。

(オバデヤ4)

 夜中の三時に宿所を出た私たちは、漆黒のやみの中を懐中電灯の光だけを頼りにシナイ山の頂上を目指しました。そこで見た、ぐるりと360度を見回せる広い大空にびっしりと敷きつめられたような星の輝きを、私は生涯忘れることはないでしょう。天の川はまさに流れる川のようであり、日本で見慣れたはずの星座の一つ一つがまるで初めて見るもののように思えて、立ち止まってしまうことしばしばでした。
 神の手になる、壮麗な芸術品であるシナイ山の星空を仰いでいると、アブラハムが、「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい」(創世15・5)と言われたのもこの星座なのだと納得し、私たちの神の大きさを思わずにはいられませんでした。オバデヤは、「あなたの心の高慢は自分自身を欺いた」(三節)とエドムに警告しましたが、それは分を忘れて自分に頼む現代人にも、そのまま当てはまる主からのメッセージです。

野田秀著『仰ぎ見る日々』より



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「おそいほうがよいもの」
だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。

(ヤコブ1・19)

 子どもたちがお母さんによく言われることばの第一位は「早くしなさい」であるとか。外に出れば、車が少しでも早くというようにわれ先にと走っています。しかし、世の中がいかにスピード時代だからといって、何から何まで早ければよいというものではありません。ヤコブは、語ることと怒ることにおいては、いつもブレーキがかかるようにと教えています。
 語ることと怒ることが早いとは、つまり自己主張が強過ぎるということであり、人がそれぞれブレーキのかからない心で自己主張したのでは、混乱があるばかりです。ある夫婦が言い争いをしました。奥さんが「二度とこの家の敷居をまたがないで」と叫んだとき、ご主人が「それじゃ、ぼくはこの家から出て行けないじゃないか」と言ったので笑いだしてしまったとか。ご主人のユーモアがブレーキになって、争いが加速しなかったわけです。私たちも心の安全運転をしたいものです。

野田秀著『仰ぎ見る日々』より


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「罪深い女の涙」
あなたは足を洗う水をくれなかったが、
この女は、涙でわたしの足をぬらし、
髪の毛でぬぐってくれました。

(ルカ7・44)

 シモンというパリサイ人は自分でイエスを招いておきながら、足の汚れを洗い流す水を差し上げませんでした。ところが名もない「罪深い女」は、泣きながら近づき、自分の立場など忘れて、涙でイエスの足をぬらしました。
 涙ですから分量からいって、足を洗うことなどできるはずがありません。ぬらすのが精一杯だったのです。ですから、イエスの足が本当にきれいになったかどうかは大いに疑問です。しかしイエスは、女の行為を喜び、高く評価し、罪の赦しの宣言まで与えてくださいました。
 考えてみると、私たちが神のためにすることは、この女の涙のように不十分なことが多いのかもしれません。でも十分な物を持ちながら、なぜかそれも出し惜しみしたシモンのようであるよりも、主ははるかにそれを喜んでくださるのです。不十分でも、主を愛してすることは貴いからです。

野田秀著『仰ぎ見る日々』より
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